いつも愚痴ばかり言っている人っていますよね。
仕事のこと、プライベートのこと、内容は様々ですが、そのことに対する不平不満、果ては悪口にまで発展することも・・・。
愚痴をこぼしている側はそれで発散できているのかもしれませんが、聞いているほうはどんどん疲れて消耗してくるという。
しかも、愚痴って本当に終わりがないんですよね。次から次へとどんどん出てくるのだから不思議です。
私自身、割と他人の感情の影響を受けやすいので、ずっと愚痴を聞いているとだんだんと気力も体力も削られていく感覚があります。
実際、しこたま愚痴を聞いた後は、こちらは何もしていないにもかかわらず、どっと疲れているんですよね。
私は割と聞き役になることが多いので、人の愚痴を聞くことも多くなります。
ただ、ここで気になったのは、この人の愚痴を聞いていてもそこまで疲れないな、という場合もあることです。その違いは何なんだろう?
今回はそれについて考えてみようと思います。
愚痴そのものについて
一番最初に大前提として、愚痴る事そのものが悪いわけではありません。
人間、生きていれば色々あるものです。いいことも悪いことも・・・。
何か嫌なことがあったとき、悲しいことがあったとき、理不尽な目に遭ったとき、誰かにこの気持ちを聞いてほしい、話して発散したいということは誰しもあるかと思います。
そういった不満を我慢して溜め込みすぎるのも、自分の心にも体にも良くないですしね。
ストレスを溜め込みすぎて心が病んでしまう前に、体を壊してしまう前に、誰かに話を聞いてもらうことも必要だとは思います。
ちなみに、私自身はあまり人に対して愚痴は言いません。
私はどちらかというと、愚痴る前に趣味や友達と遊んだりすることで発散するタイプですね(笑)
聞いていて疲れる愚痴とそうでない愚痴
最初のほうにも書きましたが、私自身は聞き役になることが多いので、割と色々な人の愚痴を聞くことも多くなります。
そんな中、聞いていると1日分の気力と体力を使い果たした勢いでどっと疲れる愚痴と、聞いていても特に疲れない、普段の会話とそんなに変わらない愚痴があるのだと感じているところです。
同じ愚痴のはずなのに、一体何が違うのか? 今までの会話の内容を振り返ってみました。
そして、私なりの一つの結論に辿り着きました。
それは、その愚痴の内容に生産性があるかないか、だということです。
そもそも愚痴に生産性なんてないのではないかと思われるかもしれませんが、その人その人の会話の内容によって、やはり生産性のある愚痴とない愚痴があるなと、個人的には感じています。
生産性のある愚痴とない愚痴の違いは?
では、生産性のある愚痴、ない愚痴とはどういったことを言うのか?
簡単にリスト化してみました。↓
・自分で問題を改善するために行動する気はあるのか
・改善してほしい気持ちはあるけど、そのための苦労は全て他人任せになっていないか
・自然に、勝手に状況が改善すると思っていないか
要は、言うだけで終わりになっていませんかということです。
改善のために行動に移せる人の愚痴はその場限りのことなので、聞いていてあまり疲れるということはありません。
ただ、その逆は・・・ということです。
生産性のある愚痴(友達の話)
私の友達は会社でそこそこの立場にあるのですが、少し勤務態度に問題のある後輩、無茶な仕事を振ってくる上司など、別段友達に問題があるわけではないのに、理不尽な思いをすることも多いようです。
ただ、その友達はもともと仕事のできる人なので、その都度自分なりにフォローしたり、臨機応変に対応したりして円滑に仕事をこなしているようでした。
理不尽な要求、対応をされる→その状況に応じてすぐさま行動する→解決する
友達の話を聞いていると、大体はこんな流れで問題解決している感じです。
なので、この友達の愚痴はほとんど事後報告というか、解決した後に「こんなことがあってもう疲れちゃったよ~」という感じの内容の愚痴が多いですね。
もしくは、現在進行形でも「こんなことがあったから今度こうするつもり。まじうざいわ~」と、自分の中で解決策を提示して実行する、でも疲れるのは疲れるから愚痴るという感じだったり。
なので、終わりのない愚痴を延々こぼすわけでもなく、ひととおり愚痴った後は別の話で盛り上がったりもします。
そもそも友達は自分で行動して解決してしまうので、愚痴の内容も毎回違うんですよね。だから、同じ内容の愚痴ばかりでもうウンザリ・・・ということもないです。
しかしながら、そんなに毎度理不尽な目にばかり遭わせられる会社にそもそも問題があるのではないか? とも思うわけで・・・
それは友達も同じように感じていたらしく、つい最近その会社を辞めてさっさと転職していました。
もともと仕事のできる友達なので、転職先にも困らなかったようです。
それもあってか、最近は愚痴の数もだいぶ減ってきて、先日はゴジラの出生の経緯を熱く語ってくれる程度には生き生きとしていて安心しました(笑)
あと、この友達は自分で自分の機嫌を取ることも上手いので、何か嫌なことがあってもそれを家庭に持ち込むことはせず(友達は既婚子持ちです)
一人飲みに行ったり、趣味のダーツを楽しんだりして、適度に息抜きもしていたようです。
配偶者と何か揉めたときも同様に、都度冷静に対応する、もしくは少し冷却期間を置くなどして、今でも家族仲は良いみたいです。
こんな感じに、自分で行動に移せる人の愚痴はそんなに疲れないというのが、私自身が体感として感じたことです。
生産性のない愚痴(元同僚の話)
では、生産性のない愚痴とはどういったものを言うのかですが、自分で改善に向けて行動を起こさない人の愚痴がそうですね。
上記のリストにも書きましたが・・・そういった場合にどうなるのかというと、その愚痴を言う人の状況はいつまで経っても変わることがないので、毎回同じ内容の愚痴を延々と聞くことになるわけです。
昔働いていた仕事場の元同僚がそのタイプの人でした。(同僚と言っても、年齢は親子ほど離れているのですが)
仕事のことから始まり、家庭のこと、友達関係のこと、自分の境遇のこと、愚痴の内容はどんどんと波及していき、果ては芸能人の不倫のニュース、子供の虐待死のニュース、自殺のニュースと、ありとあらゆるネガティブな事柄に対しての愚痴や駄目出しが、毎日同僚の口から飛び出してきました。
これは誇張でも何でもなく、本当に毎日一緒にいる時間、話題の9.8割が愚痴でした。
仕事に関して愚痴りたくなる気持ちは分かります。確かに短納期の割に単価が安かったりと、取引先からは割と無茶な要求もされていましたからね。
社長は社長で、典型的な口先だけで手を動かさないタイプだったので、こちらの業務負担も大きかったですし。
ただ、私はその中においても、少しでも自分のやりやすいように、負担を軽減するために、より効率の良いやり方を模索したりして試行錯誤を繰り返していました。
なので、業務そのものに関してはそんなにストレスは感じなかったです。社長に関しても口だけなので、実際の業務にはさほど影響もありませんでしたしね。
私にとって、仕事場での一番のストレス源はその同僚でした。
上記のリストにも書きましたが、自分で状況を改善する行動を起こさないことのしわ寄せは、私にまで影響してくるわけです。
「私これできないから」「苦手だから」「これ分からないから」「私が聞いても分からないから」で、その対応は全て私が担っていました。
そのくせ、業務量が多い、単価が安い、取引先の対応が悪い、社長の対応も悪い、他の同僚の業務がルーズだ、元社員が問題を起こしたせいでこうなった、いい加減な説明のせいで失敗したと、今この記事を書いているだけでも精神が疲弊するくらいの膨大な愚痴が毎日飛び出していました。
家庭のことに関しても、娘のこと、娘の夫のこと、自分の夫のこと、義母のこと、義妹のこと、日々これ様々な愚痴が飛び出していました。
あまり人様の家庭のことに関しては余計な干渉をしたくないので何も言いたくないのですが、話を聞いていると「それって結局あなたが自分の意思で、自分の判断で選び取ったことだよね・・・?」と感じることが多々ありました。
(すみません、詳細は伏せますが、こちらに関しては「そんな男と結婚したお前が悪い」といった次元の話ではなく、その同僚の日々のやり取りや日常の不平不満に対して感じたことです)
それに関してやんわり言っても「でも~だから」「~だからできない」「いや、でも~」と、いわゆるデモデモダッテのオンパレードでした。
正直、これが本当に毎日毎日続いたのでウンザリしていました。
恐らくですが、同僚にとってはこの愚痴を言うことが息抜きでもあったのだと思います。
ただ、上記で書いた友達の場合は一人飲みやダーツなど、自分一人で完結していたことですが、同僚の場合は相手ありきなわけです。
ここまでになってくると、ほとんど依存のようにも感じられました。
毎日同じような内容の愚痴をほぼ1日中、何年間も聞き続けてきた私がどうなったのかというと、まず胃腸炎になりました。
あと、慢性的な頭痛などもありました。家に帰っても疲れが取れないので、休日も休んだ気がしませんでした。
そのうち精神的にどんどん疲弊していって、明日が来るのが怖くなってきました。
寝てしまったらあっという間に朝になるのが怖くて、毎日夜更かししていました。
多分、病気になる一歩手前だったのではないかと思います。
ちなみにですが、↓こちらの記事に一瞬出てくる「否定ぐせのある知人」と、この元同僚は同一人物だったりします。
改善のための行動を起こさずに現状に対する不満を口にする人は、不満のある現状が一生変わることはないと思っていて、かつ、あくまで自分が主軸なので、他人の思想や行動に対しても否定的になってしまうというのは、割とあるあるなのでしょうか。
この同僚の「でも~だから」「~だからできない」「いや、でも~」という言葉は、自分以外に対してもよく使われていました。
同僚に関しては私が改善のための行動を起こしても無意味だったので、本格的に病気になってしまう前にその仕事場を去りました。
この判断は今でも間違っていなかったと思っています。
まとめ
今回は、愚痴を聞く側の立場として書かせていただきました。
最初に書きましたように、愚痴を言うことそのものは別に良いと思います。
ただ、愚痴は相手ありきで成り立つものなので、言うだけで終わりで改善する気がなく何度も同じ内容の愚痴が延々と続いたり、話題の9割が愚痴だったりというのは、話を聞く側の立場としては精神的な負担が非常に大きいです。
現状辛い思いをしているから誰かに話を聞いてほしいという気持ちは理解できますが、愚痴を言う相手はロボットではなく人間なのだということも心に留めておく必要があるかと思います。
特に「自分が誰よりも一番辛いんだ」という気持ちは、ともすれば他人に対して傲慢にもなりかねませんからね・・・。
長くなりましたが、結論としては「聞いていて疲れる愚痴とそうでない愚痴の違い=その愚痴に生産性があるかないか」ということです。
この記事が誰かのお役に立てれば幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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